はてな過去ログNo.2


No.35

日常生活がまだ思い通りにいかない場合、体重のこだわりが強く出ることがあります。「太っている」「痩せない」「太っているから外に出られない」とお母さんに言ってきます。どう答えたらいいでしょうか? 困りますよね 。何で痩せないのか・・・リズムのある日常生活がおくれてないことが大きく影響しています。学校に行く年齢であれば、学校に行ったり部活をやったり友人と遊んだり、バイトをしたりなどの日常生活のリズムがあります。

しかし家の中にいるとこのようなリズムは作りづらいですよね。お母さんも日常生活の中で、仕事に行ったり、家のことをしたり買い物に行ったりとリズムがあって自然に体を動かすことが多くなっています。もし仕事も家の事も何もすることがなかったら、どうしても食べることやごろごろしてしまうことが多くなります。そうなると当然体重は落ちません。当事者がそのように言ってきたら「通常の日常生活が送れるようになったら自然に痩せるから大丈夫だよ」ということを言い続けてくださいね

当事者は今の自分がリズムのある日常生活が送れていないと感じているわけです。それが出来るようになれば痩せてくるから心配はいりません。

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行動変化期、行動期の初期の段階に、当事者は色々な「思い」がどんどん出てきます。出てくるだけでそれがすぐに出来るわけではありません。その「思い」をお母さんは聴いてあげて下さいね。聴いてあげるだけでいいんですよ。その中でお母さんが「本当に○○したらどうしよう」ということは考えないでください。「○○のほうがいいんじゃない」「それって無理だよ」「でもね・・」等々言ってしまいたくなるような事柄なのですが言わないでくださいね。

それを言うということは、今当事者が思っていることを否定しているのと同じだからです。当事者の「思い」なのですからそのことはそのまま聴いてあげて「それはいいね」とか「そうだね」とか「そういう考えかたもあるよね」いう言い方で答えてその「思い」を受け入れてあげてください。それは今当事者の中で一生懸命「行動しよう」「行動してみたい」と思っているのです。どうしても親は実際にそのような行動をされたらどうしようと思って考え直すようなことを言ってしまいます。しかし実際にはまだ行動が出来るわけではなくて「行動しよう」と思っていることが大事なのですよ。

「○○しようかな」「○○する」っていっぱい言わせてください。言って動けない自分がいて悩みます。悩ましてください。そのうち自分で色々なことを考えられるようになります。そして、たくさん出てくる「思い」を、「これをやってみよう」と決定することが大事になってきます。決定するのですが上手くいかないのです。上手くいかなくても極端に落ち込まなければいいんですよ。落ち込まないように誰がサポートしますか?「お母さん」なんですよ。そういうことの繰り返しです。どうしても失敗しないような方法をお母さんが探してしまうのですが、それをしないでくださいね「うまくいかないかもしれないけど、その時はまたその時考えよう」ということが大事な事です。

それが自己決定になるわけです。自己決定するということは、「考えること」と「判断すること」と「決断すること」がそろっていかないと出来ないのです。そうなってくるとお母さんは「待つ」ということが大事になってきます。本人が自分の中で「やろうかな」と思うことが大事で、それを見ていてあげます。待っていて見ていてあげる事、お母さんが口を出したり手を出すことをちょっとやめてみましょう。しかしどうしてもお母さんの方が焦ってしまうのです。お母さんが焦るためにお母さんの思う安全なレールを先に作ってしまい、何とかしてこのレールの上に当事者を乗せようと当事者を動かそうとしてしまいます。それがしんどいですよ。お母さんも当事者も。お母さんがレールを作ってはいけないのです。

当事者が自分で考えて自分でやってみます。それがうまくいかなくて「ギャーギャー」なって・・そこで「こんなに前と違うあなたがいるじゃない」ということを当事者に気づかせてあげるのはお母さんですよ。「すごいじゃない、こんなに前と違ってきているよ」ってお母さんが言ってあげることが大事ですよ。「でも他の人は出来てるよ!!」と当事者は言ってきますが、「今はそれでいいんだよ、今は先行きはそういうところにいくんでしょう」「道は1本ではないよ」などなど・・いろいろな話を一緒にすることがいいのかなと思います。

価値のある人というのはいろんなことができて完璧な人、価値の無い人は何も出来ない人の思考で、かなり大きな部分で「ダメな自分」が出てきます。どんどん失敗して・・ダメな自分を許せないんですよ。「でもしょうがいないじゃない、これが今の自分なんだ」と自覚ができて「ダメな自分」を許せるようにしていけるといいですね。「ダメな自分」もいるし「良い自分」もいるわけです。出来ないことばかりではなくて出来ることもたくさんあるはずなんです。でも「出来ていること」って通り過ぎて気がつきません。当事者の「良い自分」「出来ている自分」をたくさんお母さんが見つけて伝えてあげてくださいね。「自信」につながります。

焦らないで、焦らせないで段階を上がっていきましょう


No.34

出来ている自分と出来ていない自分。
1人の心の中に「善と悪」「出来る自分と出来ない自分」「重と軽」「価値の有る自分と価値の無い自分」が同居しています。通常は目前に問題が発生しない限り考えることはしないのですが、摂食障害や鬱の人は通常の状態で「価値が有る」「価値が無い」で判断をしています。

当事者は「自分は悪い人?良い人?」の思考で、判断基準は「価値が有るか価値が無いか」によって決断していきます。当事者は「価値が有る」ことしか認められず「価値が無い」部分はダメな自分であり、二つが同居していることが許せません。ダメな自分を当事者が受け入れていければいいのですがなかなか受け入れることが難しいようです。

今の自分の現状を認められない(価値のない(出来ない)自分)のに、自分を周囲から認められる(価値のある(出来る)自分)ようにしようと、大きな高い目標にハードルを上げてそこに到達しようとするために、苦しく、難しくなります。今の自分を認められない部分から出ようともがきます。もがいてそれをやろうとするのですが、いくらやっても自分の今を認められない以上はそこへ到達できないのです。

ますます「ダメな自分」が大きくなって、「価値ある(出来る)自分」が無くなってきたと思ってしまうために自己主張が出来なくなり自己評価が著しく低くなってしまいます。「こんな自分はダメでどうしていいかわからない」と自己否定が激しくなり自己消失に繋がります

「こんなダメな自分」を親が認めてくれたり受け入れてくれたり、愛情をかけてくれるはずがないという思い込みが強くなり「食行動」に異常さが見られ病気となってくると私は理解しています。「やっぱり私を認めてくれない・受け入れてくれない・わかってくれない」が出てくるのは当然であり問題発生となりますね。

誰かが「価値のない(出来ない)自分」を認めてあげるように対応していきます。「だからダメなのよ」と言っていたらますます自分を認められなくなります。自分がダメだと思っている部分があっても「こんなことが、あんなことができているよ、すごいよね」と本人が気づいていない部分を言ってあげる人がいたらどうでしょうか?

「価値のある(出来る)自分がこんなにたくさんあるんだ」と自覚できるようにフォローしていきます。「価値のある(出来る)自分」がたくさん出てくると「価値の無い(出来ない)自分」が小さくなってきます。

当事者が「価値ある自分」を取り戻すことができれば、思考、判断、決断、行動が自己決定の中で行うことができるので回復へ向かって行けると思われます。親の関わりの中で、「価値観」「基準値」「経験値」が当事者の中で育ち、はぐくまれることによって「価値ある自分」が増えて、「価値の無い自分」を許せていけるようになります。

最終的には価値が有る、価値が無いという「0100」的な判断基準がなくなればいいのですが、「0100」的な判断基準を無くすにはどうしたらいいか・・自分を認めればいいのですが・・判断基準が無くなれば痩せる必要もなくなるし、自分は人から評価されなければならないという思いもなくなるし・・まずは当事者の行動ですね。目前のすべき日常生活のリズムを定めて行動する事ですね。しかし段階によっては、スケジュールをびっちり入れて、その通りに動いていく時期もありますがそれもやがて苦しくなりますよね。


No.33

お母さんが混乱した時どうしたらいいでしょうか。

1番の基本になることは、お母さんの「困っていること」と「心配していること」を取りあえず分けることです。そして「困っていること」を片づけます。「心配していること」は片付けられないんですよ。「どつぼ」にはまるというか自分が混乱してしまうと全部がいっしょになってしまい、わけがわからなくなってしまいます。そういう時は誰かと話をすることって大事かなと思います。

オーバーワークだったり、疲れすぎたりすると自分の中でイラつきが多くなり怒りになってきます。そうなると攻撃的になってしまうので・・・お母さんは元気でゆとりがもてるようになるといいですね。当事者のことを「何とかしなくては」ということは考えないことです。お母さんがまず自分のことを整理することです。

お母さんの「困っていること」と「心配していること」を分けましょう。当事者から「何とかして」言われることが困る・・・お母さんは「何とかしなければいけない」と思ってしまうことが混乱するのですよ。お母さんが問題を起きないように、起こさせないようにと手を出しすぎていると、問題解決の力が当事者に育ってこなくなります。お母さんが手を出してやってあげることではなくて、どうやって問題を対応していくかということをアドバイスすることだけでいいのですよ。アドバイスするということは解決方法を見つけてあげることではなくて、当事者が自分で考えてどういうふうにしていくかということに力をそそぐことです。

問題が出てくるとどうしても問題を解決しなければ・・とお母さんのほうが先になってしまうのですが、お母さんの役割は、問題を解決することが主ではなくてその問題をどういうふうに解決していこうかということを、当事者に考えさせて解決する力をつけさせることが大事です。問題を解決するということは現実に向かっていかなければならないことなのです。日々出てくる問題は目の前にある問題。目の前の問題を解決するのにテーマ(一生の課題)を解決しようとするから大変なことになってしまいます。

〇〇があるからとか、そこが改善されないと問題がまた発生すると思うから・・そうではなくてそれがあってもOKなんですよ。とりあえずは今の目の前の問題をどういうふうにするか、「それにはどういう方法があるのかな?」ということを言って当事者に考えさせることが大事ですね。

「1度こういう方法をとってみましょうか、ああいう方法をとってみましょうか」ということを考えさせて、もし出来なかったらまたそこから考えましょうと・・・「そんなこと出来ない」とか「わからない」と言ってきます。今までやった経験がないわけだから当然です。でも当事者から言われたこと全てをお母さんが考えることではありません。

解決するのではなくて当事者がいかにしてそれを改善していくかということに手助けをしていく。そのためにどういうスキルとか技術をどうやってつけていくか、そのためにいろいろな方法があるわけだから。お母さんの持っている知識とか工夫をたくさん出してあげることかなと思います。まずは考えさせること。考えて決断したら行動させる事。行動することによって持っている不安が解消されます。行動しないと不安は解消されません。想像するから(考えるから)不安はどんどん大きくなります。

心配な部分は当然あります。あくまでも「心配な部分」ということだけでいいんです。その心配な部分をお母さんが処理しようとすることは難しいことなのです。お母さんの心配を取るためには、当事者にお母さんの言う通りに動いてもらわないと心配はとれないのです。お母さんの心配をとってあげるためにお母さんの思う通りにしようとすること事態が当事者にとっては苦しいことなのですよ。

1つの出来事に色々な捉え方ができます。人によっていろいろな捉え方があります。捉え方って思いこみなんですよ。思いこむということは、そう思っていることが正しいことで自分を正当化しています。思い込みが激しいということは病があると激しくなることが多いですね。他の意見が入らないんですよ。ところが健康的な人というのはいろんな考え方ができるし、他の意見を聴くことができます。

当事者が言ってくることは当事者にとっては正しいことなのです。聴く方としては全部正しいと思って聴かなければいけないのですよ。それを受け入れるといいます。しかし、お母さんが当事者に何とかわかってもらおうと思って説得しようと試みてしまいます。当事者を責めているわけではなくて気づいて欲しいなと思って「こうなんじゃない、ああなんじゃない」「こうしたほうがいいんじゃない」と・・・それって当事者が言ってくることを否定しているのと一緒なんですよ。当事者にしてみたら嫌じゃありませんか?当然「責められている」とか「ぜんぜん解ってくれない」となります。

まずは言ってきたことを1回受け入れなければいけないのですよ。「思い」はいろんな「思い」があっていいんですよ。その思いを最初から否定しないで「そういうこともあるよね」と・・・受け入れってどうしてもお母さんは「行動」として見えるところだけを受け入れる形になってしまうことが多いです。当事者の行動を見て「よくできたね、すごいね」と認めて褒める部分は出てくるけど、「動機」とか「考え方」って見えづらいので、そこの部分を認めてあげたり受け入れることって難しいんですよね。

「よくそういうところに気がついたよね」という動機の部分を認めてあげたり、「よくそういうふうに考えられたね、すごいね」というように、「考え方」とか「動機」とか「気づき」などは見えないから認めづらいところですが、受け入れて認めてあげて下さいね。もうひとつ見えないのは「感情」なんです。相手の思う感情が見えないのです。感情を、「辛かったね」「辛いのに一生懸命だったよね」という感情を言ってあげると受け入れてもらっているという感じ方が強いですよ。

どのようなコミュニケーションをとったらいいのか・・聴いてあげることなんです。聴いてあげて当事者に気づかせることなんです。「あなたは何に困っているの?」と言うことなんです。「心配していることと困っていることはちょっと違うよね」とか、聴いてあげながら整理することに付き合ってあげます。「気づき」というのは自分の力なんですよ。自分の力をそこで発揮できるような状態を作ってあげることが大事ですよ。そうすると自分で改善する力がどんどんついてきます。

「私が何とかしなきゃ」という「りきみ」みたいものは親なら当然あるわけです。しかし、もともと当事者が持っている大きな力あります。大きな力をいかにして発揮させるようにしていくかということです、それにはお母さんも当事者が力を発揮できるような状態を作っておかなければならないのです。お母さんにもいっぱい力があります。今まで気がつかなかった部分を気づいていくことでいい方向に向かっていきます。問題を自分たちの力で解決する力がついてくるのです。小さい時から目の前に問題があるとすぐに手を出していて、今でもそういう場面が多いかもしれませね。

当事者がしなければいけないことを、お母さんの方が大きく作りすぎてしまうのではないかなと思います。「生きづらさ」ってみんな持っているわけです。その「生きづらさ」をどのようにして自分たちで改善していくかということなのですよね。お母さんの「生きづらさ」と当事者の「生きづらさ」とは違うわけですから。「生きづらさ」を個々にどのように捉えて、どう改善していこうかということなのです。何を1番大事にしてあげるかというと、当事者が「生きづらくない」ように生活していけるようにするには、お父さんやお母さんがどのような手助けをしていけばいいかということを考えることだと思います。


 N0.32

心配の先取り。
親の心配が当事者の思考を停止させることがあります。当事者が回復のプロセス・・心のリハビリを進めているさなかというのは、自分の方向性を模索しながら、自分の思いをたくさんめぐらし、その思いを・頭の中に浮かんだ思いや考えを言葉にしてお母さんに伝えます

お母さんは伝えられた当事者のいろいろな思いを先取りしてしまいます。そして頭の中で回転が始まります。お母さんの思考が頭の中でフル回転になります。みずみずしい頭がフル回転しながら「不安」というしずくとなって絞り出されます。頭のフル回転が止まると同時にそのしずくが「不安」としてお母さんの中に残ります。お母さんが自分で作りだした(絞り出たしずく)不安、問題としてお母さんの中に残ります。それはお母さんの心の中で発生した問題であって、当事者の現実の問題ではありません。

お母さんは自分で作り出した目の前の問題を解決しなければならなくなってきます。「不安」を心配しているわけです。心配をすることによって(当事者に投げることによって)不安な部分がふせげるような気分にお母さんはなります。しかしそれは解決策にはなりません。解決はできないのです。

実際の問題ではない部分を、「お母さんの心配」として当事者に伝えることで当事者の不安を大きくし、お母さんも自分の中で心配を増大し混乱していきます。それはお母さんの利己的な部分が大きく作用しているのかもしれません。親と当事者の間に適度な距離感が必要ですね。こういうことが繰り返されていると、自分の思いや思考をお母さんに話をしなくなる当事者もいますね


 No.31

当事者からみた時、社会には管理社会と管理外の社会があります。管理から外れて自分で意思決定するという変化に難しさがあります。小中高は校門を入った時から管理されます。会社員は会社のタイムカードを打った時から管理される側になります。管理される側は義務が発生します。

学生は学校と親に対して義務が発生し管理されることに、そして管理社会の中での対人関係に「生きづらさ」があるかもしれません。大学生は授業が終わった時から管理がはずされ自由になります。そこから当事者の中で混乱が始まります。例えば授業が終わって昼食となった時からどうしていいのかわからなくなります。そのために自分の意思よりも友人の意思に合わせてしまうことの「生きづらさ」が発生し苦しくなります。

当事者は管理社会では他の人と同じことをしているということで、とりあえず安心があります。どうであれついていけます。しかし徐々に集中力等が低下してくるために、なかなか当事者の思う通りにはいかなくなります。だんだんとついていくことが苦しくて難しくなるために「出来ない自分」が大きくなり自己評価が下がってきます。頭の中で不安定な状態が続いているために自己判断して自己決定が出来なくなってきます。やがて思考することが停止してしまうために考えられなくなってしまいます。

摂食障害という病の人の思考が、自分がどういしていいのかわからない状態になっているために自分のことを聞かれても「どうしていいかわからない」という言葉が出てくることが多くなります。この状態になっていると頭の中が忙しすぎてとても疲れます。頭が疲れきっているのです。疲れている頭を休ませるには、頭の中を整理して不安等を小さくすることが必要になります。そのために相手が必要になってきます。しかし病気のことを理解していない相手では難しいですね。

摂食障害の当事者は頭の中が不安だらけになっています。その不安が食物のことばかりで占められ、他のことを考えられるゆとりがなかなかありません。頭の中で不安解消(食行動)が終わった瞬間から、管理社会のしなければいけないことが発生し、違う不安が発生します。それは追い詰められた焦りになり混乱からパニック状態になります。そのパニック状態を「止めて」と親に向かいます。

今まで当事者の不安や困難を処理していたのは・・・・? 親だったのでは・・・その処理をするためにはどうしても相手が必要ですよね。親はどうしていいかわかりません。まずは出来ることを見極めて、とりあえず不安に付き合います。焦りに付き合います。この状態は当事者の話しに付き合う・・というよりも感情に付き合うことでしょうね。しかしここで落ち着くわけではなく、激しい行動としてぶつけることもあるしあるいは当事者自身の中に入り込む事もありますね。


 No.30

社会参加・社会復帰して自己決定ができ自己解決しているのにまだ、過食・嘔吐の症状だけが当事者の生活に支障をきたしている方が多いですね。症状さえなければと思いますよね、当然ですよ。当事者の思いと行動が出来なかったのは、摂食障害という病気があったからですものね。

ただ病気の初期は、摂食障害という病気があったから、症状があったから対処行動として当事者を助けるための行為でありました。当事者が安心できる状態、居場所を作っていた状態が症状の行為唯一の自助行為だったのではないかと私は考えています。

症状が無くなったとしても「生きづらさ」が無くなるわけではありません。「生きづらさ」のために数々の問題が発生しますが、当事者の中で自己決定して自己解決し、自己肯定感を作り納得します。問題を認知して決定するまでの間に発生する数々の思考、感情によって当事者の行動が左右されます。今まではそこに摂食障害の症状が介在していました。

もう症状がなくてもいいという状態の人がなぜ摂食障害の症状を手放せないのか・・・
当事者の持っている思考・感情、そして納得するという無意識の中に,不安が発生しているのではないでしょうか。自信のなさがそうさせているのかもしれません。自分を認める・肯定感がついてくると感情が芽生え、思考・感情を行動として使っていけるようになれば実感として力がついて容易に自己決定できると思います。

友人から誘われ時、自分では行ってもいいかな、でもちょっという思いがあったけど同意してしまいました。あとで考えてやっぱり行きたくないな、どうしようという気持ちが出た時生きづらさが発生するわけです。そこで摂食障害の症状が出ます。生きづらさは当事者の中で感じ行動として移すことに困難さがあります。その困難な部分の最初の相談相手が親であって母親だと私は理解しています。それが確認作業ですよね。ここからが自分で自信をつけていくスタートです。

親はどうしたらいいのでしょうか?

話を聴いてあげてください。当事者の中で問題解決をさせなければならないので、答えは出さないでくださいね。親はアドバイスをしているつもりですが、当事者にとっては余分なことかもしれませんね。親のコミュンケーションスキルを発揮するところです。親のコミュニケーションスキルをどこで学ぶかといったら、いろいろな場がありますよ。このようなことをやっている家族会でもいいし、当事者が最後の段階に入ったころからなら傾聴もいいですね。親の行動ですね。


 No.29

段階によりますが
普通に接するということは自然のままでいいんです。厳しく言うところは厳しく言うし、ちょっと優しく言ったらいいなと思ったら優しく言えばいいのです。その中でこう言わなければならない、正し話をしなければという必要はないんですよ。

当事者をどういう方向性にもっていきたいですか?温室の中で育てるわけではないでしょう。社会に出れば当然穏やかな人達ばかりではないしきついことを言う人もいます。もしきついことを言われたらどうしますか?  すぐに倒れてしまいますか?

あえて腫れ物をさわるように気を使って言うことは辞めてほしいなと思います。当事者が泣いてもいいんです。それを自分で処理していかなければいけないことですよ。お母さんも仕事場でいやなことを言われたりすることもあると思いますが、そんな時は自分でどうしますか? ということなんです。当然ストレスが発生して、当事者の中で辛かったり苦しかったということが出てきます。それを自分でどうやって処理するかとう工夫が必要になりますよね。

お母さんだったら仕事に行くというように日常生活の中ですることがあります。今学校や仕事についていない人達はどうでしょうか? 
このままではいけないんだという焦り、自分の将来性が見えない、自分の中で何かをしなければいけない、自分が何をしていいのかわからない、せねばならぬということを自分の中で作りあげてしまうと、これって辛いですよね。

「○○だからできないんだ」というように、自分の中で出来ない理由を正当化してしまうことも多いですね。例えば自分の中の劣等感とか、昔いじめられた部分とか、もしかしたらそれほどでもないのに、「それがあったからこれが出来ないんだよね」ということを自分の中に作り上げてしまったり、周りがそのようなことを言っていると当事者に刷り込まれてしまったりします。

それが「自ら作る偏見」なのです。自分の中で作られた「偏見」を取り除かなければいけないのですよ。自分の中でかたくな思い込みを自分で作ってしまうのです。かたくなな思い込みの部分をゆるやかにほどいてあげるのはお母さんにしかできないことかな・・・

「対人関係がうまくできないから学校に行けないんだ」とか「対人関係がうまくできないから仕事が出来ない」という話をよく聞きます。それを周りの人が当事者に「対人不安があるから学校にいけないのよね」と言ったら「対人関係がうまくいかない限り学校に仕事に行けない」ということになってしまいます。

「対人関係が苦手、対人関係ができずらい」というのは結構性格的な場合も多いですよね。対人不安をなくしてから学校に(仕事に)行こうとしたら一生涯学校に(仕事に)行けないということになってしまいます。「対人関係云々」は一生、自分の課題としていけばいいのです。ところが学校(仕事)に行けないというのは当面の問題です。対人不安があったとしてもどうやったら学校に(仕事に)行けるかとういことを考えていかなければいけないのですとりあえず学校に(仕事に)行けることを先に考えましょうよ。そういうところの改善をどういうふうにしてやってくかということを当事者と一緒に考えていきましょう。

ルール作りについて

ルールを作ってある程度そのルールを守らせるということは必要かと思います。ただそのルールがお母さんやお父さんが作るルールではなくて当事者と一緒に話をしていきながら決めるルールであってほしいと思います。ルールというのは出来るところから作っていきます。出来ないルールを作ったってしょうがないのです。ハードルを高いところにおけば出来るでしょうということはありません。できないのは当たり前なわけです。どの辺から出来るかということを、一番分かっているのは当事者ですよ。

ルール作りも今の目標も当事者の中でお父さんお母さんに迷惑をかけているとかこんなダメな私だからいう思いから、自分を認めてもらうために「私はこうでなければならないんだ」という自分の中で高いハードルを設定しがちです。そのハードルをもっともっと下げさせないといけないのです。下げさせるにはどうしてもお父さんお母さんの力が大事になってきます。

そのために当事者とのやりとりが大事になってきます。高いハードルを言ってきた時「それはそうだよね」「できたら理想だよね」と、受け入れます。「じゃそれをやるにはどうやっていったらいいのかなぁ」という会話をしてくださいね。かたくなな思い込みをゆるくしていくためにも、最初から山の頂上には登れないわけだから「山の頂上にいくために下から登って行こうよ」ということ言ってあげていくことが大事ですよ。

登り始めても当然また失敗します。失敗した時に「登山道って1本じゃないよね、いろんな登山道があるよね。違う登山道を探してみようよ」ということを気がつくように対応していくことが大事です。山の頂上への行き方だから、まっすぐ直線でいくこともあるだろうし迂回しながら上がっていくのもあります。そういうことを親が一緒に考えながらやっていきます。しかし「もう○○歳だから」とか同年代の人達と比べたり「このままずっとこうだったらどうしょう」親が焦っていると、一気に山の頂上を行かせようとしてしまいます。

一番焦っているのは当事者ですので、一層焦りに拍車をかけることになってしまいますので、親の立つ位置がとても大切になります。引きずりおろすかもしれないし、当事者の力にそって底力をあげていけるか・・・

どうしてもお母さんたちは「治し方」を求めてしまいがちです。「治し方」を求めるのではなく「治り方」を探すのです。「どうやって治ったんですか、教えて下さい」とうのはないんですよ。「治り方」というのはどうやって治っていくかという「過程(プロセス)」大事なのです。「治し方」とういうのは誰かが与えてくれるものです。しかしこの病はそれはないので、自分たちで「治り方のプロセス」をいかにして考えていくか、試しながらやっていくかとう手探りの状態でやっていくものだと思います。


 No.28

自分で作る「偏見」で自分の生きづらさを作ってしまっています。自分には対人不安があるから学校に行くことができない。

自分には摂食障害があるから仕事につくことができない。という捉え方を「一緒に見ることは少し待っててね」という見方をしてくださいね。対人不安が無くならないと学校に行けないのか摂食障害があるから仕事につけないのか、太っているから外に出られないのか・・等々は当事者(親も)が思考のドツボにはまっている結果ですよね。

対人不安・摂食障害・太っているは「生きづらさ」のテーマ(課題)です。学校、仕事、外に出るということは目の前の問題です。テーマ(課題)というのは長い時間をかけて取り組んでいくものではと思っています。テーマ(課題)というのはすぐに理解し解き明かすことや、理論方法など見つかるわけがありません。目の前の問題を解くという問題解決の方法はあるのではないでしょうか

問題解決は自分の経験、知識を含めた教養とか能力をフル活動させれば、自己解決ができます。自己解決によって自己肯定感が出てくれればいいのですが、自信が揺らいでいる時は肯定感が出てこないために、不安が発生し罪悪感・嫌悪感・自責が強く出てきます。
自己解決をするということは、当然自己責任が発生しますのでそこは当事者としては拒否したくなるわけです。

他人(親)に投げてしまうと・・ですよね。

親は当事者が投げた問題を受け取って目前の問題ばかりではなくテーマ(課題)まで一緒に受取ってしまい、親自身がテーマ(課題)を自己解決しようとしてしまいます。しかしこれは当事者のテーマ(課題)問題であって当然親が出来るわけがありません。目前の問題を当事者と共有して自己解決させるのが親です。親の困っていることと心配していることは別ですよ。


No.27

日々小さな問題がたくさん発生します。その小さな問題を当事者に解決させること、あるいは解決する練習をしていないと大きな問題が発生した時に解決ができません。小さな幸せを感じることができるから大きな幸せを求めないと同じように・・・問題が大きくなった時だけその場で解決することは難しいことです。その前から小さな問題をコツコツコツコツ片付けられていないと解決はできません。現実から逃げていないで現実に向かっているから問題が発生するわけです。

その問題を当事者が自分の中でどう処理をしていくかということが大事です。問題が発生したときに一番いけないことは現実から逃げるということです。小さい問題がたくさん出てきた時に当事者に解決をさせないでお母さんがいろいろなことをしていたり、お母さんが当事者の言うとおりにしてあげたりしていると、問題が発生しても解決出来たような気がしてしまうのです。それは問題解決にはなりません。

親が当事者の問題を解決することで当事者が落ち着いてきてしまうために、問題が発生しているということは親も当事者も思いません。ただ自分の中で困っていることは少しあるかもしれないですね。トンネルの先に小さな光が見えていたのに問題が発生したことで、それがまた全く見えなくなってしまう怖さや当事者の状態が悪くなっているように起きないことを望んでいます。問題が発生してないときは、当事者が安定しているように見えますが、改善はされてないのです。

お母さんが何とかしているから問題が発生していないのです。どんな状態でも問題は当然発生します。本来は自分で解決していかなければならないことなのに自分で解決させてない、自分で処理するということをしていない、自分で処理する力をつけなければいけないのです。どんな状態でも問題というのはあります。自分の中でそれをどうやって改善させていくかということを積み重ねていくことで、回復へと結びつくのかなと思います。

問題がないという場合、当事者が解決しているから問題がないということもあります。ところが小さい問題を自分の中で解決できない状態が病なわけです。病を知ることで小さな問題が今自分の中で処理できない状態だということを理解することも大切です。親はその小さな問題は見えなくて、大きな問題になってはじめて見えることが多いようです。

親は当事者が発生する問題を当事者自身で解決する方法を、親が一緒になって考えなければいけないのです。その問題を共有することが大事です。共有して話をすることが、コミュニケーションです。日々の小さな問題をどういうふうにクリアしていくかということを、親が当事者と共有して動いていかなければならないのです。小さな問題を親が関知できないということはコミュニケーション不足であり、アンテナを出していないからですよ。アンテナを出していることは大事なことです。

問題を当事者が解決するように親が考えながらやっていかなければなりません。日々小さな問題を解決していると大きな問題は発生しません。問題を解決するということは大きい問題も小さい問題もありますが小さい問題を先に解決していきます。そうすると大きい問題があったとしても、それがダメであったとしても、クリアできなかったとしても当事者が納得できるのです。

例えばこれから先受験シーズンですが、それらもそうです。色々な小さな問題を自分の中でクリアしていれば(クリアというのはそれを乗り越えると言う意味ではありません)ダメであったとしても、落ち込むだろうがそれを自分で対処していきます。ここからまた立ち向かうという処理が自分の中で出来きます。解決というのは受かると言うことではなくて落ちたとしても自分の中で整理が出来ているということです。「それがだめだから全てが駄目だ」という考え方をしてしまうことを止めなければなりません。「それができないから」「それがだめだから何もする気がなくなる」というのが一番困るわけです。

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当事者が「思うこと」「思ったこと」をお母さんはさせてあげようとします。そういうふうにさせたら「回復」するのではないかと思うから。だからそれが出来るようにと親がしてしまうことも多いです。ところが思いと行動は違いますよ。お母さんが一番先に自分の中の「偏見」を作っていることもいけないことです。お母さんの作っている「偏見」を当事者が受け継いでしまっています。子どもはそれほど感じていなかったのに、それを大きくしてしまっているのはお母さんということもあります。

「○○だから友達ができない」「○○だから○○できない」ということをお母さんが当事者に言うことによって、「本当にそうなんだ」と思い込んでいきます。「バイト(学校)に行きたくないよ」「○○さんは嫌いだから行きたくない」等々もそうです。それをどう捉えるかはお母さん。それを「対人関係がうまくできないから本当に行きたくないんだ」と捉えるのか「でもそうでもないよな」「行きたくないんだよね」とそれをサラッと流していけるかの違いがあります。

「行きたくない」ということを「○○だから本当に行きたくないんだ」と親が思ってしまいそのように対応していくと本当に行きたくないということが出来上がってしまいます。それを作ってしまうことによって本当の「偏見」が当事者の中に出来上がってしまいます。自分の作っている「偏見」がかたくなだと言うのはそれを何回もやってきたことで「頑固」が出来あがってしまったりします。

対人関係で「こんな仕事もう行きたくない」と言ってきた時「本当に行きたくないんだ」という捉え方はしないでくださいね。
「仕事やめようかな」と言ってきた時それをそのまんま受け取らないでください。当事者が言ってくる言葉をそのまま正直に捉えないでくださいね。辞められたら困るみたいな言い方もしないでください。当事者はいろいろな考え方が出てくるのを口から出しているだけです。口から出すことによって自分で整理しているわけです。

それにお母さんが一喜一憂してはいけないのですよ。そこを聴いてあげる状態でいいのです。「そうだね」って言った後にまた違うことを当然言ってきます。揺れ動いている当事者がいるということをわかってあげることが一番です。お子さんと会話をすること、そしてそれをどう捉えるかという「幅」をお母さんが広げていくことが大事かな。


 No.26

「甘え」というのは安心の中で発生し、相手に理解してもらえれば自分の中で満足できます。「依存」は不安の中で発生します。そのために確認作業として依存相手に答えを求めます。それは当事者自身が安心するため・・かな

摂食障害は感情の問題を自分の中で整理をつけていきながら回復への段階を進めて行きます。(心理的教育も有りですかね)当事者の中では「理解しているけど・・わかっているけど出来ていない部分、出来ない部分」が発生しています。その部分を自らが思い、考えて決断していかなければいけないのです。しかし混乱している状態では不安が大きくなります。その大きい不安を持ったままその行為を行うことによって「不安感」「恐怖感」「罪悪感」「嫌悪感」等が発生し大変にしんどくなります。

そのため感情の混乱が著しく、その状態から逃れる行為として激しい行動が出てきます。当事者の中に感情の激しさを心の中に潜在化させていく部分もあるので、親が「心の変化」「行動の小さな変化」に注意をすることも必要かと思います。親はこの激しい行動を治めることは大変に難しく、この状態の時は通り過ぎていくのを待つだけなのですが、親はこの時、身の危険が無い限りは傍にいて親も混乱してオロオロしているフリをしてくださいね。

「感情の整理」というのは、なぜその感情が発生したのかということをいま一度振り返ることです。出来事があったとき、1つの考え、1つの思考だけで捉えてしまうと、1つの感情しかでてきません。そのため1つだけの行動となってしまいます。1つの出来事を他の多数の思考で捉えられることができると、多数の感情が発生し、多数の行動が出ます。その「多数」が「気づき」を発生させ、1つだけの「思い込み」の解消を促します。

当事者の中で混乱する問題に「付き合って下さい」というのは、その問題を一緒に共有するということです。「答えを出す」ことではなく、説明する内容、スキルを当事者より多く持つことが大事になります。親が当事者よりも大事で重要な情報を数多く持つことによって親が「でーん」と構えることができます。親が安心する状態を維持できないと親が「でーん」と構えることができないのでは・・・

この段階は、コミュニケーションが当事者と親との中で「そこそこ」出来ている状態です。イマジネーション(想像力)の回復が出来つつある状態になってきていると、次の段階にきたかな・・・と思います。


 No.25

温室の中で育てないでほしいのです。温室の中で育てられると社会に対応できません。だめだったらダメでしょうがない、そこから「どうやって立ちあがっていくか」ということを当事者に経験させていかなければいけません。それを、駄目にならないように、失敗しないようにという状態を親が作っていくということは、その子の将来にとってどうなのかなと思います。

当事者が自分で行動する、行動して変化をかけていくということを作らせていかなければいけないと思います。問題が発生するということは何かがあるから問題が発生します。それは当事者が動いているから発生するわけです。動いていなければ問題が発生しないので、「動く」ということがとても大事になります。

当事者が動くのです。当事者が動こうとしているのに、当事者を動かなさないようにして安定させてしまうということは、その状態がOKになってしまいます。そうなるとそのままその中でグルグル回って煮詰まってしまう状態が続きます。何かすることが発生すると、自分の中で生活目標みたいなものが自分で作れるのです。それが自分で作れない状態だと相手によって自分が左右されてしまいます。当事者が「どうしていいかわからない」って言ってきたらどうしますか?お母さんが答えを出そうと思うのは違いますよ

「自分では分からないからお母さん何とか答えを出して」と言われた時「そうだよね、お母さんもわからないなぁ」「そうだね、じゃぁ明日まで考えてみようか」とか・・明日になればまた違ってくるから・・当事者の思いが。。1番大事なことは「当事者が気づく」ことです。気づいて「自分で変化させる」ことなのです。それには現場で、自分であたらせることに尽きます。現場で当事者がどういう風に対応していったかによって「変化に気づく」ということが大事です。

当事者がその場で、自分で気づいて変化をする、それは現場で自分が「気づく力」があるからです。自分の安心できる状態のものを子どもに押し付けようとするために、その変化を認めようとしないのがお母さん・・かな。「気にしない方がいい」と言うのも一方向だけからの捉え方ですね。(段階によりますが)お母さんは、当事者を安心させようとよく使いますが、「気にすることはないよ」と言うのは、むしろその子を否定しているのと一緒ですよ。

当事者は「そのこと」を気にしているのです。それをお母さんが「気にしちゃいけないって」言ったら、気にしている本人はどう思いますか? 気にしている私がいけないんだと・・・。「気にしている」ことに対して自分の中でどういう対応をしたらいいのかということに苦しんでいるわけだから、そこにお母さんがつきあわなければいけないのですよ。お母さんの枠の中に当事者をはめるのではなくて、当事者がいかにして自分の中で「気づき」みたいなものをつかむかということなのです。ただし本人に気づかせるには、お母さんが気づかないと・・難しいかな

1つの事柄、出来事に対していろんな捉え方があります。

どうしても自分の1つの枠の中の選択肢で物をみてしまうために、答えが1つで対応方法も1つになってしまいます。1つの事柄を今までの自分の枠の中での捉え方をしてくると、自分の枠に押し込もうとしてしまいます。その捉え方を自分の中で整理してほしいと思います。そしてなるべく選択肢をたくさん出してほしいなと思います。

お母さんがどうしても自分で作りすぎてしまいます。

最初は狭いお母さんの枠の中に子どもを入れておくことでお母さんが安心します。それが少しずつお母さんの「枠の幅」も広がってくるのですが、お母さんの中の安全性とか不安感を取り除くために、どうしてもお母さんが安心する「枠の中」に当事者を入れようとする作業が主になってしまいます。その枠がはずれればOKかな・・・


 No.24

入院中の関わりについて

入院するまでにいろいろと紆余曲折があったと思います。入院にいたるまでの長い月日は、コミュニケーション能力向上をさせていくことが必要で重点となります。入院したら、原則としてお母さんは毎日病院に行ってください。そしてお子さんの話を聞いてあげてください(コミュニケーション作りがとても大切で、良いチャンスです)話の中では当然不満が出てきます、その不満をお母さんが解決をしないでくださいね。不満の解決方法を親子で相談してください。お母さんが説得するのではありません。当事者に自分(当事者)の納得する方法を探させることにお母さんが付き合うのです。

例えば、看護師さんの中で苦手なタイプ、嫌いなタイプが発生します。(多くははっきりとものを言ってくださる看護師さん・・かな)
お母さんからみたら1番いいなと思える看護師さんが多いのですが、当事者にとっては苦手な、あるいは怖い看護師さんなのでどのように対応していいかわかりません。そうすると「担当を代えて」とか「怖くていられない」等々、他にも数々の問題をお母さんに訴えてきます。お子さんの訴えを聞いてお母さんはどうしますか?

「お母さんが先生に言ってあげる」「○○しないように話してあげる」等々。当事者が問題解決をしなければいけないのに、お母さんが問題解決をしてしまうことが多いです。それはどんどんエスカレートしていくことにつながり、次々に問題を見つけて訴えてくるようになります。当事者は入院していたくないので、無理難題を持ち出しては退院することを正当化しようとすることが多々あります。

入院したことで親は、当事者の身体的な不安から解放され安心しています。そのためにその安心を守ろうとしてしまうのです。当事者が『回復していこうとするプロセスを作る』ことが回復への近道です。どうしても退院することが目的となってしまいますので、入院中に「退院してからのイメージ作り」に親も支援しましょう。入院〜退院までのイメージは医療者と当事者が作ります。そこに看護師、ソシアルワーカー、栄養士、心理士さん達に手助けしてもらいながら退院に向けての治療に向かいます。親はその中に入らないようにして、外部から関わる様にします。

当事者は自分の不満を解決するために、お母さんを自分に引き付けることに一生懸命になるし、不安も大きくなります。お母さんの一貫したスタンスがそこのところを補って、回復への道が進んでいきます。入院によって想像する力(退院してからのイメージ作り)を親子で作っていきます。退院後は『心のリハビリ』をしながら「社会参加」ができるように「社会性」を自分で築いていけることが大事ではないでしょうか。そこに親の支援が必要では・・・と思います


 No.23

摂食障害という病を背負ってしまった当事者も、当事者を抱えた家族(母親)もそれぞれが自らを取り戻すことが大切です。そのために、親も当事者も自分の周りの人々の助けを借りながら自分本来の生活を取り返しほしいと思います。自分の持っている病気ばかりでなく「こんな自分だから」と言った自分自身に対する偏見や差別も含め「世間の目」などによって自分の生き方を縮こませる必要はないのではと・・・・

病によって家の中が暗くなり風通しが悪くなって、人々と出会える場も減少させてしまい煮詰まって変化が見えない状態を解消していくことも大切です。家の中の模様替えや、ちょっとした気分転換など、家の中での小さな変化を大切にしてくださいね。自分の身体、自分の気持ちがのんびり出来る場所、気持ちよくできる時間を作りましょう。身体に問題がある場合にはその改善に時間を使って、自分のための時間を使うということを考えてくださいね。

そのために、もし当事者と生活を共にすることが、短期的長期的に難しい場合は、当事者と一緒に住まなければならないということでもなく、人の助けを借りながら別々に暮らすことを考えてみることも必要かな・・・また一緒に住む関係を保つ場合は、お互いがわかりやすい明確なルールが必要かなと思っています。当事者の生活を作るには、家族以外の人々との出会いの中で出来ていくものです。生活の場を広げる支援(手助け)をしてくださいね。当事者へのサポートは、当事者が改善する助けになります

最低5人いると助かります。

1人目 話し相手
2人目 同行してくれる人
3人目 一緒に楽しんでくれる人
4人目 事態を明らかにし、意思決定をするときの手助けになってくれる人
5人目 自分で出来ないときに責任を肩代わりして身の安全を確保してくれる人

親は1人で5人分のサポートをしていかなければなりません。当事者はどのサポートを望んでいるのでしょうか? その時その時によってどのサポートなのか親が理解してくださいね。親が当事者にできるもっとも価値あるサポートは、先ずは聴くことです。頼まれていないアドバイスをしたり、批判や判断を下すことは手助けにならないばかりか、当事者の気分を荒げます。当事者のコミュニケーション能力向上に手助けをしましょう。当事者が回復への「自分探しの旅」というように、親も本来の自分を取り戻し、自分らしい生活を見つけてくださいね。

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病気を回復させていく中で各種のスキルアップのプログラムがあります。傾聴、WRAPSSTSAT、ピアサポート等々、全てのプログラムが大変素晴らしく摂食障害を回復していく上で大変有意義だと感じています。そのプログラムをどのように活用していくかは利用者の考え方ですが、当事者が自らの意志でそのプログラムを使う場合は、大変有効な手段だと思います。

そのプログラムを使用者が当事者に使う場合、使用者と当事者が理解し合ってプログラムを使用する場合と、そうでない場合とでは当然難しさは違ってくると思います。当事者が混乱して自ら困難な状況を作ってしまい、困難な状況を整理するために各プログラムを使用しながら進めていく・・しかし摂食障害、統合失調症、パーソナリティ障害等々の病気における混乱期、急性期といわれる症状がまだある段階のときに各プログラムの使用はいかがかなと思っています。特に摂食障害の急性期は死に直結する時期ですので(摂食障害の死亡率は7%〜9%の)時期・段階を踏まえて使用していただければ・・・・と思います。同時に医療者にも相談しながら利用してくださいね


 
No.22

「今の苦しみをとるのは誰?」「当事者ですよ」それをお母さんが「とってあげなければいけない」と思っているから難しくなるのです
当事者の中で困難をどういうふうにして考えていき、いかにして解決するかなんですよ。困難を解決するための色々なヒントを親が提供して手助けをします。しかしその困難を、親が当事者の変わりに解決をしては駄目ですよ。どうやって処理をして解決していくか、当事者が気づいて考えなければいけないのです。大暴れされた、暴言をぶつけられてくると、どうしても親が答えを出して解決しようとしてしまうのです。解決するのは本人です。本人の持っている問題解決の方法は、本人がしなければいけないのです。

例えば、当事者に買い物に行くように命令されて親が買いに行きます。「何で本人が買いに行かないの?」「何で出ていけないの?」それは親が買いに行くから、いつまでも出ていけないんですよ。親が買いに行かなかったらどうします? 当事者は、選択を自分の中でしなければいけないんです。問題や困難が発生するときには必ず前からの流れがあります。しかし親御さんの中には、問題が発生すると問題解決の方法だけを探ろうとする方がいらっしゃいます。とりあえずその問題が解決さえすれば、本人が安定するから・・・安定さえしてくれればいいから・・・という親の思いだけで

それではこの先もずっと、今のままの状態でいくことになります。本来は日常生活の流れの中で、当事者がどのような考えで行動するか、考えて行動させるか、そこを理解して、続けてくれるとうれしいのですが

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ひとりで回復するのは難しいです。親子の関係性の中で回復していくのだけども、親子の関係性の中に第3者が入ることによって、円滑に回るということが多々あります。
親子の関係が壊れているわけではないが、関係性を作っていくこと事態に難しさがある時、母と子2人で改善しようとすることは難しいのです。

改善しようとすることを辞めてもいいのですが、そうすると当事者は、親とどういう関わり方をしていったらいいのか、親も当事者とどういうかかわりをしていったらいいのかがわからなくなってしまいます。客観的に見ることができ、感情的になって自分のものを押し付けないお父さんが支援者でいてくれるといいのですが・・・そういう時に、支援者「医療関係者とか経験者(ピアサポーター)」などが入ればいいのですが、それは支援者の方から提供するものではなくて、相手が自ら行動を起こして、支援者に関わっていこうとしない限り支援者は関われないのです。支援者が、自分の方から相手に関わるということは、大きなおせっかいになるのではと思っています。受け手の問題もあるし、支援者がどういう形でそこのところに関わっていくかによって大きな違いが出てくることはあります。

どちらかというと、かなぐりすてて来ている家族のほうが治りが早いですね。「家の中の恥でも私の恥でも何でもいいわよ!!」って言う人のところが早い。親が自分の中で困ってない人、例えば暴れられたりすると困るけど、その時だけ収まってくれればいいという捉え方の人と、他人任せの人のところは、どちらかというと理解しないというよりも、理解しようとしない人が多いですね。病気は当事者と医療者とで治すもの、日常生活の改善はお母さんお父さんと当事者でやっていくものです。

医療者の役割は身体危機に陥った時の診療と、ある程度の薬物療法における医療者の裁量、それ以外に医療者の摂食障害の対応って何でしょうか。もちろんカウンセリング的な治療、心理的治療は必要ですよ。医療者に自分の持っている病気をそっくり預けてしまうことが問題です。「治してよ」って親も当事者も・・。そうすると当事者が自分で改善しようとか回復しようとする意識がなくなります。

家族もまたしかり、親も対応する意識が薄れていきます。その子の病状を医療者は見てはくれますが、当事者が治療に参加するという意識がないと改善はされていきません。それは回復にいたるまでにかなりの長い年月がすぎてしまいます。たんに医療者のところに行けばということだけで、それが改善されるかといったらそうではありません。医療者は、当事者が自分も治療に参加して治していこうという意識を持たせるように一生懸命するわけです。それに家族も参加しなければいけないのです。

最初はお母さんのためにと行ってたものが、これから自分のために治療をするというスタンスに移っていかないと・・そのように意識をもって行かせなければならないのですが、どういう形で移していくのかが大事になってきますよね。

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病気を発症してきて、お母さんの性格もあるし当事者の性格もあります。お母さんの性格の中で、例えば支配したがる親がいて、支配される子どもがいる。ところが支配する親に、支配されることがOKな子どももいる。子どもに従っていくタイプの親がいて、従わせる子どもがいる。それを嫌がる子どもがいて、そこから自分が離れたいと思っている親がいる。なるべく関わらないようにしている親がいて関わって欲しい子どもがいる。関わって欲しくない子どももいる。親子間の中でどういう関係性なのかということを見て行かないといけない。お互いに改善していこうかという意識が出てこないと前に勧めません。

家族支援者はそういうものを見ることができる力をつけていかないと難しいですね。家族会の中では、その親を見ながら、その子どもをみていくわけで、親に対しての反応とかが見えないと難しいものがあります。最初はみなさんわからないんです。その中で手探りでやっていきます。手探りでやりながら当事者の反応を確かめるわけです。いろんなことをやったり言ったりして本人の反応を出させて、その反応にまた親が対応していくわけです。そのようなことを繰り返していくことでいい方向にいくのです。

親が病気を理解して、理解してないまでも、どのような対応をしているか、同じ対応をずっと続けているということは、いつも同じ症状のままで変わりがないので何年も変わらないということになります。親も学ぶことによって対応方法が「はまる」ということだけではなくて、手探りの中で親の学んできたことを、確かめる意味で、行動に移します。それによって、反応の出方、出し方を、見ることができます。それによって、それがOKなのかどうか・・その繰り返しなのです。

親はわからないなりに一生懸命に当事者と向き合っていると、失敗するかもしれないけど、どうであれ子どもの反応がでてきます。その出てきた反応が親がわからなければ、家族会などで聴いてみることも大事ですよ。「今度こういう対応もあるよね」と。そしてまた自分の中で確かめてみる。それにそれぞれの性格と言うのがあるわけだから、親はその性格に合わせた対応の仕方というのを手探りでやっていくのですが、それには親が1人でやっていくには無理があります。だからネットワークみたいな中で先を歩いている人達に聴きながらやっていくということが1番改善しやすいかな・・

しかし親も、子どものもともとの性格が見えなくなってくることも多いので、その子の性格に合わせてというのが難しくなってきます。「何でこんな反応なの?」って、親は混乱してわからないから、それを皆に共有してもらうことってとても大事なことですよ。「うちはこうだったよ」「家の場合はちょっと違うわよ」・・等々。見えてくるとその中で親なりの判断がついてきます。そして出来そうなところからやっていきます。それと同時に子どもの回復具合がどの段階にいるのだろうかということを親自身が掴んで把握することです。

毎日がその繰り返しです。日常生活というのは1日でいえば24時間、1年で言えば365日、同じことの繰り返しで進んでいきます。生きていくということは日常の中での生き方だから。365日繰り返すことによってちょっと違うものが出てくるとういうことを親が理解していくことです。よく相手の思っていることを引き出すと言いますが、引き出すだけではなく、こちらからぶつけたものの反応を出させることも必要ですよ。

相手のものを引き出すということは、相手が整理できていないと引き出せないので、ある程度段階があがっていないと難しいのです。混乱している状態で整理できないのに、整理させようとすると余計に混乱する、暴れる、もっと聴こう、もっと聴こうと探るという行為が余計に暴れます。「反応を怖がってはいけない」ということを親がわからないと、従ってしまう親になったり、反応が怖いから何もしないとかになったり・・親が子どもに媚びてしまうとストレスのため方が大きくなるし・・

私の一言で地雷を踏んだって、不機嫌になってもほっておけばいいのです。あとで本人が落ち着いた時に言ってくるから、それまで待っていればいいのでは・・・


No.21

病院とか家族会とか外に出てこれる人たちはまだいいけど、そこに出て行かない、出ていけない人たちが多いんです。出てこれるから、出ていけるから、そこで支援が始まるわけだから。家から出られないとか、行きたいんだけども方法がわからない当事者に「こういうところに行ったらどうなの?」「ああいうところもあるよ」と親は言います。言うけどもその子たちは自分でモチベーションを上げることがなかなか難しいのです。本人がモチベーションをあげて何とかしていこいうか、というところまで持っていくにはどうしたらいいのか、1番先に何をしたらいいのかといったら「家族支援」なのです。

家族支援ができるように、病気を理解している家族は「家族支援する方法」を明確に作っていかなければならないと思います。1番大変なのは当事者なんだけども、当事者を支援するのが「家族支援」なんです。家族が当事者を支援していく、同時に家族のことも支援していかなければ、家族が疲弊するのです家族に家族が支援をする」それが家族会ではないかと思います。だから親は両方に入るんですよ。支援する側と、支援を受ける側と。当事者を回復させようと思うならば、親を何とかしなければいけない、親が何とかなれば、子も何とかなります・・と考えている医療者も少なくありません。

(Aさん)回復している当事者の色々なブログに時々、回復していくためにあったほうがいいかもしれないけど、必ずしも親を必要としない、親子の修復とかは必要ではないってありますけど・・
(タカ)親子の修復がないから回復しないということはないけど、長くかかるかもしれません。修復はなくてもいいけども、支援があればもっといい。


(Aさん)ブログを読んでいると「親はかかわらなくてもいいのでは・・」と思う親もいるかもしれないよね。当事者も親が一生懸命支援しているのを感じてないのかもしれないし・・・当事者は「親は何も私のことをわかってくれない」だから「私のことを何もしてくれてない」と思っていることも多いなぁ・・

(タカ)家族の支援を望んでいるのだけれども、自分の思うとおりの支援ではないということだよね。でも親は絶対にしているはずなんですよ。何をもって支援というのか・・この子が何を欲しているかわかってやってあげたとしても、はまらないことも多いし、当事者が「支援ではない」と思ったら支援ではないんだろうね。

(Aさん)してもらっているという感覚がないのかなぁ・・してもらって当然という感覚なのかなぁ

(タカ)その子が生きていけるというのは必ず親が関わってくれているんですよ。でもそういうふうに当事者が感じないんですよ。それを愛情と感じているわけではないんです。だから生野先生が言っている「手のひらに乗っている愛情」は当事者にとっては当たり前なんですよ。

親にしてみたら、「大学まで行かせてあげているのに」大学までというのは親の捉えかた。しかし当事者は「大学ぐらいまで行かせるのは親だったら当たり前」と思っていて、それは愛情を与えてもらえていることにはならないんですよ。じゃぁ愛情をかけてないのかと言ったらかけているんです。一生懸命愛情をかけているわけですよ、日常生活の中で。だから「わがまま」と言われたり、そう思われることがあるんですよね。

その中で大事な部分が抜けているんでよ、当事者に。「感謝」とか「ありがとう」とか・・それは「自己責任」という自分の中で1番大事な部分が抜けているのですかね。なんでないのかな・・・・与えてもらうこと、やってもらうことが当然になってしまうと自己責任ってなくなるでしょ、行っていることがあたりまえだから。それって長い年月の間に埋め込まれる(すり込まれる)わけですよ。

例えば外から帰ってきて玄関で靴を脱ぐ、脱いだ靴をいつも親が直していたら・・それが当たり前になるわけですよ、当然親がやるものだと思うよね。家ではそのように脱いでいてもOKだけど、よその家でそうやって脱いでいたら「なあに?」ってなるよね。家でそうだから、どこの家に行ってもそういう脱ぎ方をするのは当たり前でしょ。本人がそれを気がつかなければいけない・・よね

だから本人の「気づき」が出てこなかったら駄目なんですよ。家でいつも治してくれているのは、お母さんの愛情だと思う? 当事者は思わないですよね。でも朝起きてきて出かけようと思ったとき靴がそろえてあったら?

(Aさん)それがずっとそうだったら当たり前かもしれない。どこかよその家に行って気がついた後だったら、「あっ」と思うかもしれないけど気がつかなかったらどんなに親が治してあげていても、いつもそうだったら当たり前になってしまう。

(タカ)学校では自分の靴を自分で下駄箱に入れるわけですよ、「よそのところは違うよ」ということをそこの時点で気づかなければいけないんですよ、本当は。

(Aさん)でもほとんど気がつかないでしょ
(タカ)そうするとそれは「誰が悪いの?」ってなる、「何で教えないの?」ってなるよね。

(Aさん)親・・・?

(タカ)その靴をかたすというのも知識ではないでしょ、教養ではないですか?
教養は自分たちが生活していくうえでの生活のしやすさ、生きていくための生きやすさではと思いますよ。全部やってあげる親(過干渉な親)、奴隷になっている親、何もしない親。当事者はどんどんエスカレートしていきます。そういう子達というのは、0か100が多いですよ。

ところが、そこそこ「0か100」の間、50くらいの「そこそこ」は持っていなければならないんですよ。「そこそこ」というのは人によってみんな価値観が違うので、その価値観を「そこそこ」ということで「まぁいいか」と・・・親も「まぁこのくらいならいいか」子どもも「ああこのくらいならやらなきゃいけないか」この「まぁいいか」というのが自己責任になるんですよ

(Aさん)「自己責任」ってよく聞くけどどういう意味?

(タカ)自分が「出来ること」と「出来ないこと」があって「できること」を自分でやるということ、やるということは責任をもってやるということです。それに気がついていないから「自己責任がない」・・・ 

(Aさん)そうすると親の育て方かしら?

(タカ)無いとはいえない・・多少はありますよ。でも育て方というよりも資質だよね、子どもの資質、性格。ただ子どもの資質とか性格というのは親の性格もあるだろうし・・

(Aさん)ホントにこれは親も試練だよね。親があえてそうやっているわけではないから、親にとってはすごく酷だなと思うよね。連鎖と言われたりもするけど、親って自分の親に育てられてきたように、自分の子どもを育てていくよね、無意識に。それが自分には普通で当たり前なんだけど・・それがある日(発病して)から変わるわけじゃないですか・・「お母さんが悪い」って責められて、自分としてはどうしようもない部分だし、ものすごい酷だよなぁって・・

(タカ)その人が生きてきたもの全部を否定されたような形になるって、ものすごくむごいことですよね。

(Aさん)こんな酷なものってないなぁ、それで親は苦しむよね。当然子どもも苦しむけど、子どもの苦しみに比べたらってあるけど、親の苦しみの方がはるかに大きいと思うなぁ・・・

(タカ)子どもが苦しがっていることを親は1番感じ取るわけですよ。だから自分より子どもの方が大変だという捉えかたをしてほしいと思っています。でも私たちからみると子どもより親のほうがよっぽど痛みは大きいと思うよ。

(Aさん)親はそれで自分を責めるんですよ、あえてそうしてきたわけではないのに責められてしまう・・・子どもはそんなこと分からないよね、自分のものをぶつけているわけだから。そこが連鎖を断ち切るというのかもしれないけど・・連鎖を断ち切らなければいけないのかもしれないけど、酷な病気だよね。

(タカ)子どもはけ口がないんだから・・すべてのことに対するイライラ、自分の中で理解できないイライラもあるし、人から与えられて思うとおりにいかないイライラや、相手の反応が違ってくればイライラが募るし、そのイライラだとかムシャクシャした気持ちだとか、怒りとかそういうものをどこにぶつけたらいいのか、その行き先や相手があればいいけど・・自分以外に。

(Aさん)その怒りみたいなものを自分に向ける子と、親に向ける子と、社会に向ける子といるよね。誰でもよかったというのは社会だよね、通り魔的な事件とか・・

(タカ)自分に向けるのは自傷とかODとかそういうもので、あとは親しかないんですよ。どういう形であれ、最初に親にいくよね。親が気づくか気づかないかはわからないけど、その子なりには言っているはずですよ。親のアンテナにひっかからないかひっかかるかの違いだけ・・

(Aさん)激しく出してくる子はならないの? こういう病気に

(タカ)最初から激しく出している子は自分の方向性がある程度定まるんですよ。それが反抗期だよね、でもそういうのがないと、そういう子なんだなと思い込んでいるよね親は。

(Aさん)親は何で子どもをつかめないのかなぁ、近すぎるのかな。客観的に見ることができれば、もう少しわかるよね。

(タカ)だからお父さんが参加してくれるといいんですよ。でも、お父さんも中に入ってしまって渦に巻きこまれてしまうと、客観的にみることができる人がいなくなってしまう・・お父さんが客観的に見れる状態にすることも大事かなと思いますよ。

親が行動することなく、知識の中だけで解決しようとしている、解決できると思ってしまうんですよ。そしてどうしても自分の価値観だけを押し付けてしまう。知識を行動に移すことって難しいんですよ。

当事者にとって対象者が「親」ということを、親が気づかなければいけないんですよ。それを親は自分の中で実感しなければいけなのだけど、子どもと向き合っていないから気づかないんですよ。向き合っているふりをしているだけだと、子どもにはわかるからどんどん、エスカレーとしていきます。

病状によって、回復の段階によって、対応の仕方は違うので変えていかなければいけないのですよ病状がわからなければ対応方法がわからないわけだから、困惑しているだけなんですよ。当事者が困っている状態に親も実際にどっぷり浸かっていかなければいけないと思うのですが・・・当事者の困っている状態と、親が困っていることが違っているということに親が気がつくことが必要ですよ。

親を楽にさせるには、親を理解してあげる人たちがいないと難しいですね。周りの人たちが自分(親)をサポートしてくれているということを自分(親)が理解しないと難しいと思っています。中には、自分から行動しないで、ただ私にあなたたちの持っている知識だけをください、経験してきたことを教えてください、成功したことだけを教えて下さいよ・・・という人もいますよね。行動して実感して改善していこうという意識がないと支援には届かないです。親が抱えていく部分をしっかり抱えていかないと、回復するまでに長い道のりが必要とされると思います。家族が子どもたちといかにして回復していこうかというプロセスを自分たちでつくっていくことが家族支援かなと思っています。

当事者の言うことを聴いてあげてくださいねと私もよくいいますが・・この聴いてあげてということも段階によって違うのですよ。当事者が自分の中で苦しんでいるのですよ。苦しんでいるということは、「そうだよね、苦しんでいるんだよね」って聴いてあげるわけじゃないですか、自分の苦しんでいるのを聴いてもらっているだけで癒されますか? ということがあります。

当事者の段階がある程度回復しているところまできているなら、聴いてあげることはOKなのでが、まだそこまで行っていない状態でのしんどさを聴いてあげるというのは難しいのです。親は「自分は子どものためにこんだけやっているのよ」ということを誰かが聴いてくれると自分を整理することができるのです。それって癒されるのですよ親が。ところが当事者がしんどい時に、親が聴いてあげるスタイルって難しいんですよ。

当事者がその「苦しみ」「辛さ」を言葉で表現することがまだ難しい段階において、親は聴いてあげなくてはいけないと思って一生懸命に聴こうとすると、しんどい最中は「探られている」感じになって、自分の中で整理がつかず余計にいら立ちが大きくなることも多いのです。悩み、苦しみ、辛さがが深ければ深いほど求めているものが違うとイライラします。その探りを自分の中の気づきと感じられればいいのですが・・しんどい最中は、当事者が自分自身を分からなくなっている時が多いので、当事者に親が聴く作業って結構難しいものです。



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